2005年05月のアーカイブ

大橋一蔵宛書簡展

 7月2日までの間、市民交流センター「ネーブルみつけ」特設会場にて”大橋一蔵宛ての書簡展”を開催しています。
終了いたしました。

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 大橋一蔵は、代々旗本小浜氏領下鳥村で大庄屋を勤めていた大橋家の長男として、1848(嘉永元)年に生まれました。
 1873(明治6)年漢学修行のため上京し、そこで薩摩藩士らと交流、影響を受け、1876(明治9)年前原一誠らが起こした「萩の乱」に連座します。
 また、弥彦に私立「明訓学校」を創立し、初代校長となり、1885(明治18)年からは北海道開拓のため、地元下鳥村の農民と共に現在の江別市に移住し越後村を築きました。
 大橋一蔵については、「維新の散歩道」や「幕末維新史跡訪問」等、様々なサイトでも紹介されています。
 今回の展示では、大橋一蔵に送られた書簡20数点を展示しています。当時の手紙を読むことで、一蔵の人となりや人間関係、歴史的背景など新たに気付くことも多いのではないでしょうか。

 是非とも市民交流センター「ネーブルみつけ」にお誘いのうえ、本物をご覧下さい。

 今後も年間を通して大橋家に関する文書を展示する予定です。あわせて解説なども行いますので、どうぞご期待ください。

投稿者: 市教委C 日時: 17:04 |

三島億二郎から大橋一蔵宛の書簡

7月2日までネーブルみつけで大橋一蔵宛の書簡展を開催しています。
終了いたしました。

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これは、北海道から新潟経由で東京へ行っていた一蔵へ送った、三島億二郎の手紙です。一蔵は、見附―江別―東京を頻繁に行き来しながら北越殖民社の活動を行っていました。このときの上京の目的は、北越殖民社で阿波の移民を受け入れることについて打ち合わせをするためでした。文面からは、殖民活動の資金を支援者から集める苦労などが読み取れます。
 発信が明治22年1月26日で、当時東京までは5、6日を要していました。一蔵はこの手紙を読んで間もなくの2月12日、事故に遭い重傷を負って、同月22日に亡くなりました。
要約すると「阿波(徳島県)移民について彼の地(徳島)へ行くことになりそうですが、一時に百戸というのは費用もかさみ、三・四ヶ年に分けたらどうかと関矢(孫左衛門)氏が主張されており、長岡(殖民社の出資者)も同様の説も出ています。先方に交渉の節はこの辺お含み置きください。
その会合の際、先年の挫折よりいやな話も多々ありましたが、損失をおそれるあまりの意見であって、先回の二十戸は費用が少なく移住出来たこともあり、五十名の同盟者が協力するならば賛成者を五名増加させることは難しくないでしょう。
同盟者に協力してもらうには、良い結果を出し損失を少なくするしかありません。江別二十戸の成功を見て同盟者が少しはやる気を起こすでしょうが、この辺は慎重にして失敗の無いようにしたいものです。
阿波移民については会議で決まった事で今更変更も出来ないが、一言言わせて貰いました。
上京後は旧知の方と会合、新規の見聞など楽しくお過ごしのことと思います。麻布にご面会の節は宜しくお伝え下さい。」といったことが書かれています。
         
注 ※戮力=力を合わせること  ※悦服=よろこび従うこと  ※贅言=無益なことば ※麻布=松方正義のことか?当時松方正義は麻布に住んでいました

投稿者: 市教委C 日時: 16:30 |

中川清兵衛から大橋一蔵宛の書簡

7月2日までネーブルみつけで大橋一蔵宛の書簡展を開催しています。
終了いたしました。

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これは、与板出身で札幌ビールの技師長として日本で最初にビールを製造した中川清兵衛からの手紙です。江別で活動していた一蔵は、札幌でビール製造をしていた中川や札幌農学校校長だった森源蔵らとも交流がありました。
 「森(源蔵か)森本両家の結納がのびのびになっていましたが、昨日両氏と協議し、十一日と決められました。いずれ森氏からお知らせがあると思いますが、お気にかけて居られると思いご報告いたします。ところがただいま森本氏から十一日は差し支えがあり、一日日延べ願いたいと申し出があり、森氏にも問い合わせましたので、ことによると十二日になるかも知れないのでご承知おき下さい。」という内容です。
両家の婚約について中川清兵衛が一蔵に報告するということは、この婚約に一蔵が重要な役割(例えば媒酌人)を担っていたのではないかと考えられます。

投稿者: 市教委C 日時: 16:28 |

母りくから大橋一蔵宛の書簡

7月2日までネーブルみつけで大橋一蔵宛の書簡展を開催しています。
終了いたしました。

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これは一蔵の母 りく が書いた、一蔵の妻 てい が北海道で亡くなった際の手紙です。かな文字で書かれています。
「おていが、病のために養生もかなわず不幸になったこと、お前に比べればまだ良かったと思って諦め、御身大切にしてください。私は修行と思いありがたく精進いたします。昨日は初七日の法要を致しました、行蔵(一蔵の長男)おのぶ(長女)おりい(次女)は気が落ち込んでいるようだから気をつけてください」と言ったことが書かれています。
 前年に夫の彦蔵を亡くし、また嫁のていを亡くしたことを嘆きつつ、一蔵を気遣う様子が読み取れます。また文面から大橋家のあった下鳥村でも初七日の法要を行っていたことがわかります。大橋家の菩提寺は、見附市指出町の淨恩寺です。
 この後、長女の のぶ は10歳を過ぎたばかりで北海道に渡り、母の代役を務めます。
 

投稿者: 市教委C 日時: 17:14 |

松方正義から大橋一蔵宛の書簡

7月2日までネーブル見附で大橋一蔵宛の書簡展を開催しています。
終了いたしました。

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これは、後に総理大臣となった松方正義が一蔵に宛てた手紙で、明治19年ごろ書かれたものです。要約すると、「北海道長官の岩村(通俊)が今月中旬に北海道に赴任するとき(一蔵に)同行してくれるそうだから、近日中に同人宅においでくださればゆっくりお話したい、本人は家にいるからいつでもおいでくださいと言っています、という返事です。」という内容です。
当時大蔵大臣だった松方が、同じく北海道長官だった岩村通俊と一蔵の間を仲介していることがわかります。
 追伸には「(北海道への)同行メンバーはあとでこちらから案内いたします」と書かれています。

投稿者: 市教委C 日時: 17:11 |