昭和26年から、現在の市民病院の場所(学校町2丁目)で授業の一部を開始(すべて移転したのは昭和29年9月)し、およそ半世紀に渡り歴史を刻んできました。
南中学校と西中学校の開校に伴ってそれぞれの学区の一部を分離した後、平成元年9月に現在の市街地東部高台に移転しました。現校舎は見附市運動公園に隣接し、校舎も広く、環境に恵まれています。
昭和37年は、生徒数が1,500人を超え、県内でも有数のマンモス校となりました。その後生徒数は減少し、昭和54年には1,000人以下となり、平成7年から500人を下回るようになりました。令和3年度は218人です。
校 章
昭和23年に全校生徒からデザインを募集して制定されました。機の糸巻を六角形の雪の結晶にかたどっています。 機織りの町見附を考えて デザインされた校章です。
校 歌
中俣叶(中俣明初代教頭の父)作詞、阿部直平初代校長作曲で、昭和23年に制定されました。1 筬のひびきに 刈谷田川も
波の綾織る機業の町
愛だ睦だ 見附中学生
明日の日本を負う我ら
2 霞む守門嶺 からりと晴れて
今日も張り切る身と心
覇気だ努力だ 見附中学生
明日の日本を負う我ら
3 文化見附の 誇りも高く
匂う桜の新田山
意気だ正義だ 見附中学生
明日の日本を負う我ら